放り投げられること
こんにちわ、生玖子です。
GWですね。
ゴールデンウィーク。何がゴールデンなんだか。
黄金週間・・・ゴールデンウィーク、どっちがどう語感がいいのか悩ましいところですが、”なにものか”のネーミングセンスに深い敬意を表します。
さてと。「放り投げられること」についてですが。
医者に通っています。
当然持病があり、月に一度。
そこでなんだか「放り投げられる」のです。
診察していただくお医者様は、お忙しい方なの受診できる曜日が限られております。
厳格な予約診療では無く、月末の○曜日に・・・という感じでうかがうので、受診予定日になると一応電話で先生がいらっしゃるか確認してから行くことにしています。
空振りだったこともあるから用心。
そちらの受付の方が変わりまして、いわゆる新人さんがいらっしゃいます。
慣れないなあ・・・と思いつつ数ヶ月がたった頃、確認の電話をしたときに新人さんが出られまして。
(仮に私の名前が 佐藤だといたしましょう・・・)
新人さん「はい、△△クリニックです」
私「もしもし、佐藤と申しますが、明日診ていただきたいのですが先生はいらっしゃいますか?」
新人さん「さとう・・・(間)、はい、大丈夫です」
私「では、明日伺いますのでよろしくお願いいたします」
というやりとりをいたします。
新人さんはおとなしい、ふわっと頼りなげな声で話されます。
わたしはこの、新人さんの「さとう・・・」という、苗字を呼んでちょっと間を取って(考えて)から次へ進むとう反応に「放り投げられる」感じを味わいます。
すごく居心地の悪さを感じる。
最初は、なれていないからかな・・・と思っていましたが、数ヶ月たつと新人さんが電話に出る頻度も上がり、そしてその相手の苗字を言って間を取る、という話し方が変わることも無く。
先輩同僚であるほかの方の対応が普通に丁寧なこともあり、新人さんに対応を教えないのかしら・・・と考えながら、電話のたびに居心地の悪さを感じているのです。
せめて「さとうさんですね。」くらいにしてほしいと思います。
電話で苗字を「放り投げられる」のは嫌だなぁ、と思いますので。
その、後ろにあるもの
こんにちわ、生玖子です。
自己肯定感ってなんでしょうね・・・。
自分のことは自己肯定感が劇的に低い人間だと認識しておりますが。
先日Twitterを見ておりますと「愚息(ぐそく)」なる言葉について調べたくなりました。
たしか・・・「愚息」というのは自分の息子を下げる表現なのでそれを聞いたら聞いた本人は自己肯定感が低くなるとか、傷つくとかいう話だったと思います。
ぐ‐そく【愚息】
の解説自分の息子をへりくだっていう語。豚児 (とんじ)
(goo辞書から引用)
へりくだる。
敬語表現では謙譲語にあたるでしょうか?
よく尊敬語、謙譲語などと聞きますが、
尊敬語は相手を(イメージとして)自分の上に置いて表現。
謙譲語は自分を(イメージとして)相手の下に置いて表現。
深いところ、細かいところは文法的に色々あるのでしょうが、あくまでも日本語の中の敬語という技法ですよね。
作法とか、文化とかそういうもの。
存在するものは、存在するのです。
そこを踏まえて。
本来なら自分の子供を「愚息」という人は自分の子供のこと本気で愚かだと考えてはいないんだと思います。
そもそも本気で愚かな子供だったら、人に紹介したりなんてしないでしょうし。
作法兼、照れ隠し兼で使ってるんだと思いたい。
字面だけ見て判断するような人は多分「愚息」って使うことはない、はず。
でもまあ、いつでも自分の子供を「よく出来た子で」と紹介できるのが一番素敵ですけれども。
もし、自分のこどもを「愚息(愚女)」と言ったとして、実は相手に「あいつは自分の子供を悪く言って自己肯定感を下げているやつだ」と思われているとしたら、実に世知辛い世の中だと思います。
私なんかは「よく出来た子」なんて両親に言われたら、照れるし、居心地が悪いし、信じられないし、無理して言ってるんだと思って体調を悪くしてしまいそうです。
そこら辺は親子の関係性がすべてですよね。
良い関係性を築いている親子なら、それが本気かポーズがわかるのではと思います。
ぜひそうあって欲しいです。
いつでも、相手を褒めたり敬ったりして過ごしたいですね。
でも、謙譲語もなくなって欲しくはないと、ぼんやりと思いました。
デューン 砂の惑星
こんにちは、侑良です。
DUNE 砂の惑星 が映画化されるんだとか(←情報遅い)。
知ったのはつい2,3日前。
古いテレビに外付けされていた古いHDDの中身を整理しようと古いモノ(古いモノは断捨離すべき)から見て消そうと思い立った訳ですが。
その中に「DUNE 砂の惑星」のドラマ版が1話だけありまして・・・。
ちょっと見てみると、途端に小説を読み返したくなり。
そして小説に新訳版があることを知り・・・。
色々と調べてみると映画化の話にたどり着き・・・
いやぁ・・・2021年になって再び、昔読んだSF小説の(3度目の)映像化に出会えるとは良い時代だなぁ・・・となにやら感慨深いものを感じます。
デューン/砂の惑星との最初の邂逅は、学生時代の図書館で。
今はもう絶版であろう文庫がたくさんあった図書館でした。
C・J・チェリイの(色褪せた太陽シリーズ) 「ケスリス」「 クタス」「 ジョンジル」とか、ナンシー・スプリンガーの「アイルの書」とか・・・「クラッシャー・ジョウ」とかいろいろ・・・学校の図書館で読んだんですよね・・・。
っと、昔話が過ぎたわ。
面白いSF小説だったなぁ・・・。訳者さんも好きだったし。
その後、いわゆるスピンオフシリーズも読んでいたハズ。
新訳版、読んでみようかな・・・。
映画も見てみようかな・・・。
ちょっと楽しみになってきました。
古き良きモノ、が 今も良きモノになるなんてわくわくしますね。
楽しみ、楽しみ。